12月25日に閣議決定された10年度予算案は一言で言えば「公共事業を削減して一部の人たちに直接給付しよう」という話だ。給付の内容は子ども手当、農家への戸別補償、そして高校無償化などであり、これを民主党では「コンクリートから人へ」と呼んでいる。
公共事業は削減すべきか?
公共事業の削減はマスコミ及び民意の圧倒的支持を受けてのものだろう。しかし、本当に公共事業は社会にとってマイナスだったのだろうか?
まず、「日本経済 過去20年の推移」で論じたように、日本経済は公共事業を削減した97年(橋本内閣)と2001年(小泉内閣)を契機として腰折れし、回復への目処を失った。一方、大型財政を組んだ小渕内閣で一時的な回復を遂げていたのだ(小泉内閣で腰折れ)。
これは単純に、公共事業・政府支出の経済へ及ぼす効果が理由である。
まず、GDPは
GDP=消費+投資+政府支出+純輸出
によって表されるが、不況下で消費と投資が落ち込んでいるときには、政府支出を増大させ底支えするというのがニューディール政策からの考え方(一般的なケインズ政策)だ。
ここで、単なる減税・直接給付と公共事業を比べた場合GDP押し上げ効果の計算は以下となる。
公共事業
政府支出額→個人所得増加→連鎖的な個人支出
減税・直接給付
個人所得増加→連鎖的な個人支出
簡単に言うと、公共事業として政府支出が行われた場合、その支出額がまずGDPに計上され、その後、賃金部分が個人所得の増加として現れた後、個人の消費性向(所得のうちの何割を消費に向けるか)に基づいて乗数効果を持つことになる。
一方、減税・直接給付(子ども手当など)の場合は、最初の政府支出分はカウントされず、個人所得増加分(減税・給付額)以降が同じく乗数効果を持つ。つまり、そもそも公共事業と減税・直接給付では、ちょうど政府支出額の分だけ公共事業の方がGDP押し上げ効果が高いのだ。
これを別の視点からみると、不況下での公共事業とは、それがなければ失業していた人に仕事を与え、所得を与える行為である。このとき、失業者が労働した分だけ付加価値を生む。一方、減税や個人給付は労働を課すことなく、直接給付金を与える行為だから、そのプロセスで付加価値は生まれない。ちょうど、この「付加価値」の部分が公共事業と減税・直接給付金のGDPの押し上げ効果の違いを生んでいる。
また、失業とは、本来働く意思と能力があるにも関わらず、仕事がないがゆえに働いていない状態である。そのため、仕事さえあれば生まれる「付加価値」が生まれない。付加価値とは言葉のとおり「価値」なので、一言で言うと、もったいない、労働資源の浪費なのである(労働は保存が利かない)。

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コンクリートから人へ
では、日本社会で、そもそも、公共事業はいらないのだろうか?つまり、もう、これ以上の付加価値は必要ないのだろうか?公共事業は減らすべきだとの世論が強いのは、多分、公共事業というとすぐにダムとか使われていない農道・林道が想起されるのが原因だろう。
しかし、例えば、災害が起きたときの多数のボランティア。街中で見られる様々なボランティア活動。彼らは支払いを受けていないが、社会にとって必要とされる人たちである。但し、企業活動(市場)というベースには乗らないから、それをボランティアとして行っている。そうすると、ボランティアというのは企業ベースではペイしない、しかし、社会にとっては必要かつ有益な活動ということになる。
社会にとって有益だが、企業ベースではペイしない。そうした分野を担当する存在こそが政府ではなかったか?
ならば、労働人口の5%=300万人もいる失業者のうちいくらかを、ボランティアが行っている活動分野で働いてもらい、政府として給与を支払えば、これはもう立派な公共事業ではないだろうか?
また、別のアイディアもある。
これまでの公共事業の多くは、政治家が媒介し、中央官庁を通してゼネコンが実施するというイメージがあった。これを例えば、市町村毎に予算をつけて、校区単位で住民に「必要な事業」を企画・立案してもらい、独自に事業を実施したらどうだろうか?
これまでは住民のニーズは議員さんに話をもちかけ、中央省庁へ陳情してもらい事業化するというのが一般的だった。それを住民独自で企画・立案、そのサポートを地方自治体が行う。こうするだけで、より現場で必要とされる「役に立つ」事業が実施できるのではないだろうか?
もちろん、これも言葉どおりに公共事業である。
そして、これこそが本来の「コンクリートから人へ」だと思うのだが、どうだろう?